Immersed in Technology – Art and Virtual Environments EMBODIED VIRTUALITY: OR How TO PUT BODIES BACK INTO THE PICTURE 一体化された仮想性 ― 身体を再び画面に戻す方法
サイバースペースは身体無きメディアと言われることが多い。
→ウィリアム ・ギブスンの小説内の言及「サイバースペースの身体なき歓喜」、ジョン・ペリー・バーロウがVR体験を「私のすべてが切断された」と語る等
実際身体はVRに入るのではなく、ディスプレイの前にとどまる。(VR体験における脱身体状態)
しかしこれはサイバースペースにおいて身体が果たしている役割を覆い隠す。
実際には脱身体化はされておらず、VR空間のインターフェースや操作速度の設計など様々な点において我々の身体性は重要である。サイバースペースに入るとき、身体は現実世界の構築同様、仮想世界の構築に関与している。
我々が仮想空間を体験できるのは私たちが身体化されているからである。ではなぜサイバースペースは脱身体的だと錯覚されるのか?→手がかりは仮想性の構築にある
この錯覚は、身体とスクリーン内のイメージを結ぶインターフェイスが無視されることで発生する。イメージは人間の視覚的錯覚を用いて三次元的に表現されスクリーンの先の世界が我々が主体性を持つことのできるもう一つの世界として扱われる。また我々の身体を置き去りにしたいという願望が、この世界が独立しているという錯覚をより強固にする。
ではなぜ脱身体をあこがれるのか?→ハンス・モラヴェックはタンパク質の身体からシリコンの身体に置き換えが進むと論じた。意識はコンピューターにダウンロードされ、脳はコンピュータに移行し事実上の不死が実現する。
matsuzen.icon映画Tron的なもの?
matsuzen.iconこれらは果たして人、生命と言えるものか?AIとの違いは?
モラヴェックは主体性と心を同一視しており、心は進化の初期段階では必要だが、今や不完全で扱いにくい物として、バーチャルの時代においては機械が器となり、精神は電子的に符号化されたものとして残る。
モラヴェックのビジョンは、不死を得るため身体を超越するという宗教的な夢を、そのままサイバースペースに移し替えたものである。
これには重要な違いがある。→宗教と科学は長年対立していたが、モラヴェックのビジョンでは科学者は身体の超越に参加する。必要なのは修行ではなく腕のいいロボット外科医
こうしたビジョンは身体と心が切り離された文化的伝統によって育まれた。
しかし人間は根本的に身体化した物であり、これを否定する幻想は危険である。そもそも精神をコンピュータに転送する技術は存在しない。
仮に可能だとしても、コンピュータに転送された心が、身体に根ざしたものと変わらず残ることはない。
こういったシナリオは環境汚染や感染症などの問題が溢れる現実からの逃避が目に見える。皮肉にも、こうした幻想がこれらの不安を増大させているといえる。なぜコンピュータの中で生きるのに、大気汚染や感染症を気にかけるのか?
この幻想にはジェンダーの政治学とも結びついている。女性的な生殖の力を、男性的な技術シナリオに組み込むことで、主体性を男性的な物として符号化された合理性と同一視し、それまで女性的とされた身体の物質性は放棄される。(男性/女性と精神/身体という二元性)
男性的なテクノサイエンスは、合理性と不死を追求した女性から生まれる必要のない身体を設計していると指摘される。
matsuzen.icon合理性を求める男性の精神性によって生まれた(合理化された?)バーチャルの身体(=アバター)に女性が多いのはこれが理由のひとつ?
男性/女性という二元論は心/身体の別の二元論を強化し、また互いに補完しあっている。
ナンシー・レイズ・ステパン「女性はヨーロッパの黒人である」→二つの二元論が強く結びつくと一方の二元論の特徴がもう一方に適用される。
白人は黒人よりも優位性が高い→黒人/女性と結びつくなら白人/男性と結びつくのは明示されていないが明らかといえる。
支配的な項の白人と男性は隠れた共通項により特権や価値を持つ白人男性が生まれ、それは同じくスティグマ化された共通項を持つ黒人女性と対をなす物として対応関係になる。
これは比喩的表現にとどまらず、実際に人相学では黒人や女性が、白人や男性より能力が劣っていると示そうとする実験の正当化に利用された。
サイバースペースにおける脱身体にもこの二元論が適用される。ここでは男性・心・シリコン技術が優位となり、女性・身体・有機体がスティグマ化される。これにより女性から生まれた有機的な身体を、コンピューターで置き換え、差別の対象となるこれらの語は消し去さられる。
これはサイバースペースという技術的な側面と、二元論という言語的な側面の双方があり。身体を画面に取り戻すにはどちらの要素も考慮して考察する必要がある。
サイバースペースの言説、技術、比喩、実践の交わる概念として仮想性という言葉を使う。
仮想性は物質的な構造が、情報的なパターンと相互に浸透している知覚として定義する。
仮想性の概念の例として、スマートハウスがある。
スマートハウスは照明、暖房、配管、窓などの住宅のシステムを、コンピュータと結びつけるための装置を用いる。制御されるドアやブラインドは家の物質的構造として存在しつつ、同時に情報回路の構成部品として扱うこともできる。
サーモスタットは物理的な構造を持ちつつ、コンピュータや住宅システムと通信している。→物質的構造だけでなく、通信回路の部品としての通信と制御の要素の意図を理解しなければスマートハウスの設計意図は読み解けない。
この物理的対象かつ情報伝達の具現化という二つの性質は、現代文化を映し出す縮図ともいえる。
matsuzen.icon物理的物を情報的な物として扱う概念?
仮想性への傾向が強いものとして人間の身体がある。二十世紀以降、身体は物理的な構造であると同時に情報的なパターンを持つものとして理解された。
エルヴィン・シュレーディンガー→身体を遺伝子情報の表現として捉える視点
グレゴリー・ベイトソン→情報は生命や知性において第一義的であるという主張(何でできているか(物質)より、どう動くか(情報))
ノーバート・ウィーナー→フィードバックループというサイバネティクス原理によって複雑な行動をモデル化
1980年代までには、小説などでは、身体は仮想空間への移行時に置き去りとなる扱いにくい付属物として見なされていた。
1990年代までには、PARCでは研究者に配られたセンサー付きバッチを用いて、人間と環境が密接に通信し合う身体化された仮想性を構築していた。
身体は単なる物理的な物体でも、情報的なパターンでもないその両方の性質を持つものである。
仮想的身体を理解するには単純な二項対立思考だけでは不十分であり、身体の消去をもたらす複雑な仕組みを解き明かすことが重要。
この構造を解き明かすために、A・J・グレマスが発展させた記号論的四角形を用いる。 記号論的四角形は、二項対立の隠れた項を明示するように設計されている。
隠れた項を明らかにすることで、仮想的身体が原説的にどのように構成されるかを明らかにし、アーティストによる実践が「サイバースペースは身体を欠いたメディアであるという前提」にどのように挑戦しているかを示す。
記号論的四角形と仮想的身体
記号論的四角形の構築は、ひとつの2項対立を選ぶところから始まる。(現前(=存在)↔不在)
ポスト構造主義では二元論が重要な役割を持つ。脱構築的分析において、現前の存在は、不在との差異を通じその意味を安定させることは出来ない。(=現前と不在の二元論は独立した項ではなく相互作用する動的な概念) table: 記号論的四角形の始まり
現前 ↔ 不在
この図を四角形に変えるには、最初の二稿にに含まれる含意を展開する必要がある。→唯一の解があるわけでなく、異なる含意を同じように展開することが必要。
第3の項に今回の場合、情報理論において重要なパターンという概念を選択する。→パターンは認識が現前(=存在)を知覚することと結びつく。
例えば黒い塊のパターンは影ではなく木と認識される。しかしパターンは対象の物質的存在を必ずしも必要としない。→映画はスクリーンの視覚的パターンの認識に依存するが、それらのパターンは実際には存在しない。(映画は存在しないもの(=不在)を見せるパターン)
第4の項はパターンを否定するランダム性となる。
table: 記号論的四角形の複雑化
物質性
現前 ↔ 不在
情報
ランダム性 ↔ パターン
物質世界は現前と不在の相互作用によって生まれるので、これらを結ぶ項は物質性となる。
情報世界はランダム性とパターンの相互作用によって生まれるので、これらを結ぶ項は情報となる
技術的な意味での情報は新聞などのメディアとは区別されている。
メッセージに含まれる情報量は確率分布の関数として数学的に定義される
これらの分布は完全な予測可能性から完全なランダム性へ至る尺度によって計算される。
ウォーレン・ウィーヴァーは情報はノイズから区別されるため、何らかのパターンが必要
しかし完全に予測可能なパターンは新しい情報ではなく単なる反復→情報はパターンとランダムの間で均衡しているとき最大の情報を伝える。
よって情報はパターンとランダムの相互作用で表される
記号的四角形を用いることで、物質性と情報が交差する物としての仮想性の含意を調べることができる。
その含意はそれぞれの項を互いに結び付ける事で明示される。
現前とパターンは複製という軸で結びつく
現前とパターンの一致はミメーシス(模倣)の領域であり、それは対象が時間を経ても同じ形態を保つ前提に基づく。
不在とランダム性は乱れという軸で結びつく
現前の充填を不在が乱すように、パターンが時間を経て複製される期待をランダム性が乱すから。
仮想性と記号論的四角形
https://scrapbox.io/files/6a533e82be32792658dcce74.png
不在とパターンはハイパーリアルという軸で結びつく
ハイパーリアルはボードリヤールによって定義された用語。
模倣の連続によって指示対象としての原本が失われた状態。
例えばCDに収録される楽曲は複数の録音を編集して作成される。これは実際の演奏として存在しない(不在)にも関わらず、完璧な音楽の(パターン)として整えられる為、まるで本物の音楽に聞こえる。→実際はそれはシミュラークル(原本無きコピー)である
シミュラークルはパターンを複製するのでコピーである感覚が生まれる、しかし指示対象が不在なため原本無きコピーとなる。
matsuzen.icon→かつての演奏行為が原本。デジタル技術による編集を受けるCDは演奏行為(現前)を伴わない、しかし楽曲というパターンは存在する、しかしCD自体に原本である演奏行為は伴わず、純粋な情報のパターン(音源の配置)となり、実態は原本(演奏行為)が不在の情報のパターン(楽曲)となる。
ハイパーリアルは物質性と情報の相互作用の結果として、記号的四角形によって予測される。
現前とランダム性は変異という軸で結びつく
変異はランダムな変化が物理的に現れる状態を指す。
例えば遺伝子の突然変異は奇形やミュータントを生み出す。
変異はポストモダン文学と文化では重要な概念。→なぜなら情報が価値を持つ現代、パターンとランダムのバランスが重要なため。(前述した情報理論)
ハイパーリアルの時と同じく、変異は物質性と情報の相互作用として、現前とランダムの相互作用の結果として記号論的四角形の中で予測される。
記号論的四角形の4つの座標はデカルト座標の四つの象限を思い起こさせる。 matsuzen.iconhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1a/Cartesian_coordinates_2D.svg/500px-Cartesian_coordinates_2D.svg.png
何故パターンは右下(第四象限)に置かれるのか?
デカルト座標では右下は正のx値と負のy値の組み合わせとなる。
パターンは現前を否定して導かれる不在によって生まれる。
ランダム性はこのパターンをされに否定することで生まれる。→つまり二重否定によって生まれる(負と負、第三象限)ため、四つの項の中で最も明確に定義されない言葉となる。→ゆえにノイズを多く含み、新しい発見や洞察が生まれやすい。
記号論的四角形は仮想的身体にどのように作用するか?
これらは物質性と情報が互いに含意するときの関係を図式的に示す。→ハイパーリアリティや変異のような多様な考えが、同じ現象から発生したものと捉えることが出来る。
デイヴィッド・クローネンバーグの映画『ザ・フライ』では科学者が肉体を情報化し、テレポートを試みる。この時、転送後の存在は元の身体なのかコピーなのかという問題が出てくる。
科学者は偶然チャンバーに入ったハエと遺伝子情報が変わり、怪物となってしまう。→原本の複製ではなく、二つの情報が混ざったことで偶発的に発生した存在として物理的に現れる。
よって現れる身体は不完全なコピーである。また原本も受精や遺伝により生じたコピーに過ぎない。
これらは歴史の闇に隠れ、絶対的な原本は不明なままとなる。
リチャード・ドーキンスは人間は利己的な遺伝子に操作される存在である(=遺伝子情報からコピーされ生み出された存在である)と論じている。
身体が遺伝子による情報的パターンである場合、身体は霊や魂ではなくパターンが始まる地点が身体の始まりと言える。(=身体の始まりは魂が宿る瞬間ではなく、遺伝情報のパターンが始まる地点を指す)
これは堅実な身体は情報的パターンによって相互浸透されパターンの組み合わせ(突然変異など)によって脆弱にされている。